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光背にステンドグラスがあしらわれたご本尊様の前で
縁あって真言宗のお寺に嫁ぎ、右も左も分からないまま月日ばかりが経ちました。

学生時代、仏教は美術作品や歴史史料として学ぶもの、楽しむものでした。
だから、お檀家さんや札所めぐりでお参りにくる方々と接するうちに、
私は大きな矛盾を抱えるようになったのです。

「あなたは仏様にお会いしましたか?」
「あなたは仏様にお会いする努力をしていますか?」と、尋ねられ、
今の私は、胸を張って「ハイ」と答えることはできない。
お寺で暮らす人として、いいわけがないように思えました。

ひとさじの会に参加して、宗派は違えど、素敵な僧侶の方々との出会いがありました。
「この方たちは阿弥陀さまにお会いするための努力をしている。
 ん……?もう、すでにお会いしているのかも。」

「ひとさじの会」に引き続き、彼らが活動している「為先会」に是非参加してみたい。
そして今回、念願かなって初参加できたのです。

お寺の生活は、朝は掃除から始まり、仏さまへご霊膳をささげ、
お勤め(勤行)をし、その後朝食となります。

どこの家庭でも同じように、朝食を用意する女性は少しばかりせわしない。
お参りするまでの間に、掃除に、洗濯に、仏さまと人間さまの朝食作りに……と、
一度に様々な仕事をこなします。

したがって、お勤めの最中も、朝食に出す味噌汁と焼き魚の火加減が気になる始末。
毎日のお勤めなのに、いつも「心ここにあらず。」なのです。

今日は、時間も家族も気遣うことなく、じっくり、一心不乱に、
自分自身のために「お参りできるぞ」と思うと、うれしくなってきました。

でも、「自分の為だけにお参りする。」って、そんなわがままな気持ちでいいのかな?
とも思ってきます。

「こんなわがままな私ですが、お許していただけるでしょうか。
 南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。……」
と私のお念仏はスタートしたのでした。


「阿弥陀さまにお会いする前に、お会いした気持ちになっていた?」

レポートを書いている今になって気づき、自分のことがおもしろく思えてきます。
夫婦げんかするたびに、仏壇に手を合わせていた祖父を思い出しました。

聞こえてくるのは南無阿弥陀仏。言葉にするのも南無阿弥陀仏。

集中がとぎれ、雑念がおきると思ってました。
格好良く唱えようとか、所作を美しくお勤めしようとか、健康になりたいとか、
幸せになりたいとか、そんな気持ちも起きませんでした。

念仏の大きなうねりの中にいながら、心の中は静かで心地よく、悲しすぎることもなく、
うれしすぎることもなく、緊張してるでもなく、弛緩してるでもない感じ…。

日常生活では、私の耳はいつも誰かの言葉に過敏に反応し、
良くも悪くも振り回されてばかりです。

同様に、お口も過剰に反応して、つい口をすべらせ、相手ばかりか自分の心も乱される日々。
あぁ。「南無阿弥陀仏」とお唱えしているときは、
心を乱される言葉も聞かず、発言することもなく、なんて心地よいのだろう。

「あなたは今、ここにいていいのだよ。」と言われているような安心感。
 不安定な心が、回復していく気がします。

為先会が終わった後、自分のためだけにお参りしてしまった罪悪感を、
私はすっかり忘れてました。

自分のことも、他人のことも責めることのない、
隠れていた優しい気持ちが取り戻せたような気持ちまでします。

お念仏の2時間は、本当にあっという間でした。
もう、終わってしまうのか…。という寂しささえ感じたぐらい。

ところで、阿弥陀さまにお会いできたかどうか。

まだまだその境地にたてそうもありませんが、あの2時間の心が満る感覚は、
遠い昔に置いてきた、幼かった子供の頃の充足感と似ているような気がしました。

心光院さまの玄関を後にすると、夜の東京タワーが、
まっすぐ頭上に伸びているのに気づきました。

東京では珍しく霞がかった夜空にライトアップされた東京タワーの姿は、
本当に神秘的でした。阿弥陀さまからの素敵なプレゼントに思えました。


帰宅すると、もうひとつのプレゼントが。
我が家の「なま仏さま」がスヤスヤ寝息をたてておりました。
大きな安心感を、寝息からも感じとれた、素敵な夕べとなりました。