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今回は為先会の会長のご自坊で厳修
四月の隅田公園の桜並木を散歩していると、大勢のほろ酔いの人たちに出会います。彼らがうららかな春の陽射しを喜び、毎年花をつけては美しく散りゆく桜を愛でながら、友人たちと語り合う姿はとても楽しげです。わたしは心地良いこの季節に、桜の花や楽しそうな花見の方々を眺めるのが大好きで、ついつい外へ出かけたくなるのです。また、実は天気の良い日の外歩きに楽しみがもう一つあります。それは、昼間の月を探すことです。

月は、太陽の強い光にかくれてよく見えませんが、昼間もちゃんといるのです。青空の中をよく眼を凝らすと見つけることが出来ます。時には、何気なく手を大きく広げて空を仰いだときに、うっすらと白く光る月を発見することもあります。見つけても特別なことが起こるわけではありません。でも、なんとなく眼に見えない大切なものを見つけることが出来たような気持ちにさせてくれるので、わたしは白く光る昼間の月を見つけた日は、一日うれしい気分で過ごせるのです。

二月に月一の別時念佛の集い「為先会(いせんかい)」の七日間厳修別時念佛会に参加したときにも、朝のお掃除などでお堂の外へ出たときには空を仰いで月を探しました。毎日空を眺めましたが、その際に白く光るお月さまは見つけられませんでした。しかし、お堂に戻ると月のように白く美しい円光を背にした如来さまのご尊容(そんよう)を拝することができて、毎日うれしい気分で過ごさせていただいたのでした。

一年に一度の為先会の七日間別時念佛会は、お念佛をお称えする以外には私語もなく、各人がただひたすら如来さまと一対一で向き合わせていただける貴重な機会です。携帯電話の使用どころか、私語すら慎まねばならないなんて、厳しいのではないか、かえってストレスがたまるのではないかと最初は思いました。

ところが、一週間過ごしてみると、いかに日頃から無駄な言葉を発し、余計なことに心を煩わせていたかを実感させられるのでした。そして、如来さまと真向いでお念佛申していると、わたしのことを無条件に受け入れて、どんな気持ちも聴いてくださり、ありのままにみ光のなかに包み込んでくださっていると感じられるのです。これが何よりもありがたい時間なのです。いつも気がつけばあっという間に一週間は過ぎゆき、風呂場の排水溝のようにふき溜まった心の垢は流され、劣化したゴムのように疲れて固くなっている身体はすっかりほぐされて帰るのです。

もちろん、一週間のお念佛中ずっと妄念が湧いてこないわけではありません。心を如来さまに専一に向けようとすればするほど、心があっちへ行ったりこっちへ行ったり、落ち着くことなく飛び回るのを感じます。道場の中では平生の生活のことにまったく想いを向けないようにするのですが、あっという間に妄想・妄念の虜になってしまいます。

お念佛の先達が妄念をなくして無念になれとは言わず、「妄念にとりあうな」と仰せの通り、妄念に一度とらわれるとしばらく抜け出せなくなってしまいますので、周囲の方のお念佛の声を励みにスッと如来さまに想いを向けるように心がけました。如来さまの尊容に想いを向けながらも、足の痛みや妄念が心を出たり入ったりするわたしですが、如来さまをとても身近に感じられる尊い時間を過ごさせていただいたのでした。

そんな経験を大学の研究所の友人と何気なくお話していた時のこと。それを聞いていたとある先生が横から「浄土宗さんはそんなに修行をする必要があるんですか?そもそも、念佛して往く浄土だってゴツゴツした宝石に囲まれていてはストレスが溜まるんじゃない?」などと急に問いかけられたことがありました。これは暗にお念佛のみ教えが、一遍でもお称えすれば後は何をしても許されるいい加減なものであり、如来さまのお浄土といっても経典に説かれる通りのはずがないという、とても批判的な問いかけです。

少しムッとしたわたしでしたが、その場は冷静に「お念佛は相続が大切ですし、お浄土は煩悩に振りまわされるわたしたちを何とか救いたいと如来さまがご用意くださったもので、わたしたちの浅はかな知恵ではかれないものですから」とだけ答えさせていただきました。

この悪意ある問いに対し何よりも嫌だったのは、如来さまのお言葉であるお経典の内容を馬鹿にしたような物言いでした。お経典の内容を、実在しない架空の物語としてしか受け取ろうとしない先生の不遜な心を感じたのです。自分の眼に映らないものは存在しない、自分の経験値に照らし合わせて考えの及ばないものは存在しないという、自分の知恵で判断できるもの以外を認めない、とても傲慢で不遜な心持ちにガッカリさせられたのでした。

そもそも、自分の知り得ることは、自分が生まれてから今に至る間に触れられたものや行った場所、体感した事柄だけの極めて小さなものです。テレビやインターネットで得ることのできる知識は膨大にあるといっても、所詮は伝聞に過ぎません。それなのに、多くの現代人は世のすべてを知った気になっているのです。そして、自分の小さな知恵を振りかざして、お悟りを開かれた如来さまの金言を端(はな)から疑って信じようともしないことの、なんと愚かしいことでありましょうか。

眼の見えない方は太陽の光を見ることができません。しかし、だからといって太陽が存在しないわけではありません。同様に、わたしたちの心の眼は自分の犯してきた生前の咎(とが)や煩悩に曇り、直接に真の如来さまのお姿を拝することはできません。けれども、修行を完成されたお釈迦さまの清浄な御眼からご覧になれば、お経典に説かれる通り阿弥陀如来さまは確かにこの世に存ましてわたしたちを照らしてくださっているのです。

覚者(さとれるもの)となったお釈迦さまが、わたしたちの代わりに歩むべき道を明らかに見て示してくださっているのがお経典であり、佛語であることに絶大の敬意と信頼がなくてはならないのです。まして、如来さまを想ってお念佛申すことはお経典に示された佛語であり、この言葉を信じない佛教などあり得ません。わたしたちはこの佛語を信じて如来さまの御名をお称えすることが肝要なのです。

法然さまは「(佛像等の)尊容を想うに、当に真佛を見るが如くすべし」と仰せになります。わたしたちが眼にして想いを向けることが出来るのは、この世の木や泥、紙などによってできた如来さまの尊像のみですが、この尊像にも真の如来さまに向き合っているような「敬虔な心」をもってお念佛申せと教えてくださっているのです。
わたしの大好きな坂村真民さんの詩に「昼の月」というものがございます。

  昼の月
  昼の月を見ると
  母を思う
  こちらが忘れていても
  ちゃんと見守って下さる
  母を思う
  かすかであるがゆえに
  かえって心にしみる
  昼の月よ

如来さまは昼の月のごとく、はっきりと見つけることはできないものの、確かにおられていつも念佛するものを見守ってくださいます。別時念佛会に参加しても、真の如来さまにご対面しているという心持ちがなければ、近しさを感じることもなければ、何のご功徳も頂戴することもできないでしょう。知らず知らずのうちに不遜なものの見方が身についてしまっている現代人にこそ、眼に見えない大切な存在に対して「敬虔な心」をもって接することが必要なのかもしれません。

合掌


*財団法人 光明修養会 機関紙「ひかり」連載
 吉水岳彦「お袖をつかんで ―第十一歩 不遜な心と敬虔な心―」より
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