特に生活困窮者のおかれている葬送の現状については、聞いていて胸が痛くなった。さまざまな理由を抱えて路上生活を余儀なくされた人のなかには、その最期を路上で迎える人もある。路上の仲間が気づかなければ、その人は事務的に搬送されて火葬され、どこかの無縁塔に葬られる。誰しも生れるときには親がいて、その人のことを見守る存在が必ずいる。
ところが、路上死の場合、誰もその人を見送ることもできず、手を合わす場所すらなく、誰にも気づかれずその存在は忽然と消えてしまう。死後に家族と連絡が取れて葬儀を執行してもらうこともあるが、まれなことであるという。そんな彼らにとって、死後も大切な仲間とともにいられる場であり、みなが手を合わせてくれるお墓は、死後もみなとつながっていられるという安心を与えるものであり、彼らが生きていく上で重要な意味を持つという。
いま東京都台東区にある浄土宗光照院の「結の墓」は、この話し合いがきっかけとなって建立されたものである。貧困問題についてまったく無知であった原氏とわたしは、この「結の墓」建立を契機にNPO団体の行う炊きだしや夜回りに積極的に参加し、学ばせてもらうようになった。そして、活動に参加してみると、貧困問題以外にわたしたちが仏教を学びはじめたときに教わった「無常」や「苦」等を、机上ではなく現実のものとして直接学ばせてもらうことにもなった。
今年、原氏と共に周囲の僧侶や寺族、信徒に呼びかけて「社会慈業委員会(通称:ひとさじの会)」を立ち上げたのは、貧困の現場における支援活動を通じてそのような現実を学び、多くの人と共に慈しみの心をもって寄り添いたいという思いからであった。また、本当につらい貧困の現実と遭遇、もしくはそのようなお話を聞いた後には、真剣に本堂にてお念仏をせずにはいられなくなったことも、大切な活動の動機であったように思う。
現在、社会慈業委員会では、生活困窮者の葬送支援の他、浅草において、体調が悪く炊き出しの列にも並べない方々のために、おにぎりをもって夜回り配食を行うといった活動を行っている。今後も、貧困の現場に学びつつ、寺院や僧侶がいかにしてNPOや地域社会と協働して社会的弱者の支援を行うことができるのかを考えていきたい。
合掌 なむあみだぶ
※このコラムは「ayus(アーユス)VOL89」2009.10発行に収載されているものです。ちなみに同誌には、ひとさじの会がお世話になっている金沢さだこ氏(ステップアップハウス「一粒の麦の家」を開設された方です)のインタビューや、山谷で医療ボランティアをされている本田徹医師の見解が掲載されています。ぜひご覧下さい。