公開講座を終えて約一ヶ月が過ぎてから、このレポートを書いています。
われながら亀さんペースに反省。とはいえ、一ヶ月たった今でも記憶に残っている内容こそが重要なのだろう!そんな風に開き直って、当日のメモをたよりにレポートしてみます。
はじめに、協賛の浄土宗報恩明照会理事長の袖山榮眞上人よりご挨拶をいただきました。
上人のご指導により、「南無阿弥陀仏」を十遍お称えする浄土宗の「十念」から講座がスタートしました。
袖山上人からは、自分は後期高齢者になった。しかし、自分がこの世にいる間にやりたかったことをひとさじの会が始めてくれた。未熟な会であるがどうぞ見守っていただきたいとのお言葉をいただきました。
その後、ひとさじの会の事務局長より講座の主旨説明がおこなわれました。
講座の主旨は「自分たちがやってきたことを伝えたい」ということではない。貧困問題の活動や病気の方との出会いを通じてまざまざと気づかされる「心の闇」と「生きづらさ」という現実。この問題に対していかに取り組んでいくべきかを学ぶ場にしたい。そして参加者の皆さまがその活動に一歩でも足を進めるきっかけになれば、と。
その後「「ホームレス」と出会う子供たち」のDVDが上映され、その製作に尽力されたTENOHASI事務局長の清野賢司先生より解説がありました。
子供が夜回りに参加すると路上のおじさんたちはとても喜んでくれて、いつも無愛想な方でも思わず顔が柔和になるそうです。子供からおにぎりをもらうとなると、おじさんたちのプライドが邪魔して拒絶するのではないかと懸念していたのですが、実際にはその逆でした。子供の親しみやすさに学ぶところは大いにあるのですね。
清野先生はこの問題に取り組むきっかけについて次のように話してくださいました。
中学校の社会科の教師として人権問題に取り組んでいた。しかし、過去に勤めていた学校の近所で、路上のおじさんを子供たちが襲撃し、殺害してしまうという痛ましい事件がおきた。自分は人権問題に取り組んでいながら、この路上生活の方の問題をまるで知らなかった。きびしい差別にあっている方のことを何も知らなかった。それがきっかけとなった、と。
路上生活の方を「はたらかざる者食うべからず」や「なまけている奴」という一方的な決めつけ。そんな奴らはどうなってもいいのだという社会の冷たい視線。この一方的な決めつけと社会の冷たい視線は、多くの誤解にもとづいているのだと伝えていきたい。視野を広げるということは多くの視点で考えることができるようになること。そのように力説していたのが印象的でした。
それから清野先生がこの活動を六年にわたって続けてきた今、感じていることについて。
活動をはじめた当初は、
①食事を差し上げて
②対話をして
③再就職
という、単純にこの三つが満たされればよいのだと思っていた。
ところが、いよいよ生活保護を受けることができ、住むところも得られたのに、どういう訳かそこから出て行ってしまう人たちがいる。
その結果だけをみると、「やっぱり、どうしようもないダメ人間か。せっかく国からお金をもらえるようになったのにそれを捨て出てくるなんて」と思ってしまうかもしれません。
しかし、そこには実にさまざまな問題が複雑に絡み合っているという状況がある。たとえば、知的・精神的な障害があったりして、社会にうまく適応できないという現実があり、その方々をどうやって支援していくか。今はそのためのプロジェクトを立ち上げているところとのことでした。
DVDの映像のなかで、路上生活の方が積み重ねた段ボールが崩れ、それを積み直しているシーンが流れていました。その横をハイヒールでツカツカと無関心に通りすぎる人が映っていました。今現在、貧困問題に取り組んでいる方がそれを見て、「むかしの自分もあの人だった。まったく無関心だったよ」とおっしゃっていたそうです。
わたしたちひとさじの活動も、
(1)路上生活の方への直接支援
(2)社会の無関心にはたらきかけること
この二つが活動の大きな柱になっています。
今回の講座を通じて、一方的な決めつけが誤解であることを「理解」してもらうのがいかに難しいかということを痛感しました。
わたし自身、立ち上げ当時からこの会に参加していましたが、今さらながらに会長や事務局長がこの二つに粉骨しているのだとようやく理解しはじめたところです。
その後、北村年子さんより講演がありました。
(*このあたりから写真等の記録のため、後半のお話は断片的にしか拝聴できませんでした。一番深く思ったことのみ記しておきたいと思います)
すべての問題(暴力・虐待・いじめ等)の根底には「自尊感情の欠落」がある。そのことをさまざまな具体的事例をあげてお話くださいました。
僧侶の参加が多いことを見越してか、自尊感情とはお釈迦さまのいう「自灯明」(自らをともしびとせよ)と同じではないかとのお話も披露してくださいました。
その後、北村年子さん、清野賢司先生、ひとさじの会から高瀬顕功さん、それからコーディネーターに神仁さん(全国青少年教化協議会)を迎えてパネルディスカッション。
このパネルディスカッションでは神仁氏の鋭い指摘により、自尊感情を形成することの難しさを聴衆の皆さんも痛感したのではないでしょうか。
この点はわたしにとってよい学びになりました。講演とディスカッションを聴いていた宗教者の方は、おそらく自尊感情を形成する鍵は「自灯明」だけでなく、自灯明と両輪の関係にある「法灯明」(仏の教えをともしびとせよ)にあると強く思われたのではないでしょうか。
ただ問題は、その「法灯明」をいかに実感し(自らにともしびをいただき)、いかに伝えていくか。自らの心にともった自尊感情というともしびを、どのようにして他者にもうつしていくことができるのか。
他人を利する「利他」の活動に取り組めば取り組むほど、自らの信仰を深めていく「自利」の必要性を強く痛感いたします。
火のない薪にはだれも暖を求めて集うことはありません。薪が焚き火になってこそ人は暖を求めて集うのです。
そのへんからレンタルしてきた言葉ではなく、日々、自らがお念仏のなかに実感している「法灯明」としての仏さまの光の心強さを伝えてゆきたい。
そう、「自尊感情を形成するためには、仏の光が必要ですよ」と。これこそ宗教者の役目なのだと、自分の尻を叩くきっかけとなりました。
ただ、どうにもわたしのお尻は重い。重いから足が痛い…。また重いから立ち上がるのがおっくう。この重いお尻を上げざるを得ない環境にすこしでもこの身を置いて、なんとか仏道を少しずつ歩んでいきたいと思います。
最後にひとさじの会の会長から閉会のあいさつがあり、公開講座はおひらきとなりました。
開始時と同じくお十念をともに称えて、非常に引き締まった会になったように思いました。