今年の1月17日、 はじめて「ひとさじの会」の活動に参加しました。
参加のきっかけは、すでに当会で活動されている福田亮雄さんからの紹介でした。
今年の初め、彼と酒を飲んだ時のことでした。たまたま、彼から「月に2回、この浅草近辺の路上生活者ににぎりめしをつくって配っているんです。」との話がでて、当会の活動などについて詳しく教えてくれたのです。
私はただただ、「とても立派だな。」と思いながら話を聞いていたのですが、彼はことさら自分をひけらかすわけでもなく、淡々と「だれでもできますよ。」というものですから、ならば自分でもできるかなと思い、つい、「自分もやってみたい。」といってしまった(?)のです。
この時、彼は、「別に無理しなくてもいいんですよ。ただ、気が向いたら・・・。」という感じで笑いながら答えてくれました。
実をいうと、私はかつて、鎌倉時代の叡尊、忍性というお坊さんたちが実践した社会的弱者への救済活動にたいへん興味を持ち、私の属している宗派の研究機関でそのことについて研究していた時期がありました。
こんなこともあり、私の中に、仏教者、ひいては自分が社会的弱者の方々とどのように向き合い手を差しのべればよいのか、との思いを常に持ち続けていたのも事実です。
そこで、今回、せっかくこのようなお話を伺ったのだから、実際に路上生活者と向かい合って、自分がどのように感じ、どのように行動するのかを確認してみたいと思い、当会の活動に参加したというのが本心です。
さて、当日は、おにぎりづくりから参加しましたが、まず、活動しているメンバーの皆さんが、とても快活で気さくで明るいことに驚きました。
とても自然体なのです(そもそもこういった活動は、肩に力を入れて「社会的弱者」を助けて上げなければ、などとおこがましい意識で行うものではないのだと今になって何となくわかってきました)。
本堂での法要の後、午後8時に出発です。私は福田さんと同じ班で、いろは会商店街から浅草に向かうルートです。
早速、ダンボールや毛布にくるまれて休んでいる方々を確認すると、参加されているみなさんはごくごく普通に「おからだいかがですか。」、「薬はよろしいでしょうか。」などと声をかけ、おにぎりとカイロを渡しています。
ところが、私はというと、路上生活者の存在を確認しても、自らそばに近づこうとせず、第三者的に傍観しているばかりで、どうにか七このおにぎりを差し上げるのが関の山でした。
頭ではわかっていても体が動いてくれない。何とももどかしい状況のまま、気づいたら浅草駅前の集合場所に着いていました。
初めてこの活動に参加して、口では救済だの、手を差しのべるだのいっても現実の路上生活者を目の当たりにしてしまうと積極的に関わろうとしない自分を確認したのです(要するに、寺院の中という、いわばアジールにいて、あまり文句も言わない檀家さんを前に偉そうな話をして自己満足しているだけの僧侶でしかなかったということです)。
ただし、何も卑下していません。なぜなら、今も述べたとおり、本来の自分自身に向き合うことができたのではないかと思うから。
これからは、少しずつではありますが肩の力を抜いて自然体で行っていけるのでは・・・。