「緊急事態ですが、いやだからこそ、明日は被災者追悼の思いを南無阿弥陀仏の声に込めて真剣に勤めたいと存じます」
為先会の事務局長さんの呼びかけのもと、13日の夕方、為先会のメンバーにて、文京区湯島のお寺さんを会処として、地震被災者の方のために2時間の別時念仏をお勤めしました。
会員一同、どうしてよいか分からない気持ち、何もできないもどかしい気持ちを抱えたまま、とにかく集まり、ただただ一心に、阿弥陀様に向かってお念仏を申してきました。
わずか10名程度の参加であったにも関わらず、一瞬も気を抜くことなく高らかな声が本堂に響き渡り、ほんの少しだけ私たち自身の気持ちも休まったような気がします。
写真は当日対面させていただいた阿弥陀仏像ですが、漆黒のなかに浮かび上がる荘厳な尊像のお姿に、思わず「助けたまえ阿弥陀仏」との意気がこみ上げてきました。
このような状況のなか、快く会処を提供下さり、お念仏の思いを届けさせてくださったお寺様に心より感謝申し上げます。
終了後、今回の地震に関すること、支援のこと、近親の方々の現況などをさまざまに情報交換しました。信頼できる皆と集まって他愛もない話しをすることが、こんなに気が休まることであり、頼もしいことなのかとあらためて考えさせられました。
先日、福島に帰還された天台宗の先輩が日記のなかで、
「夕方になり、親戚の方が迎えにきて福島市内へ。
こういう時期にお亡くなりになった、その方の、にっこりした笑顔に
はっとなる。
こういう風に、ころもを着てお経を読むなんて、もしかしたら今日で最後かもしれないと
思った。
ホントに明日は、服を着込んで避難生活しているかもしれない。
ねんごろにねんごろに、みなで泣いた。
家に戻って、近所のおじさんおばさんがきてた。
いろいろ世間話、こっちでは、打って変わって大笑い。
世界のトイレ事情。
いま、水洗トイレも使えない愚癡からの展開。
なんだかこっちにもどってから、喜怒哀楽が欠如してて、すさんでるんだろうなと思う。
泣いて、笑って、けんかして。
ホントありがたいんだな。」
と書いておられました。一読して感極まりました。
仲間と共にいる、泣いて笑ってけんかする、喜怒哀楽の発露、という当たり前の有り難さを思うと同時に、今孤独でおられる被災者の方々の寂寞感や、安心して夜を過ごすことのできない辛さを痛感します。
「衆生、仏を礼すれば、仏これを見給う。
衆生、仏を唱うれば、仏これを聞き給う。
衆生、仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給う。
彼此の三業相い捨離せず。」(善導『観経疏』定善義より引用)
これは善導大師という中国の高僧のお言葉。つまり、阿弥陀仏はその名を呼ぶ限り、「いつでも、どこでも、あなたと共にある!」という力強いメッセージでもあります。
私もまた阿弥陀様が立てられた、このような願いをお慕いし、被災された方と共にこの娑婆世界にあり、共に生きてゆくのだという励ましの気持ちを、どんな形であれ伝え、寄り添ってゆきたいと思います。
電気を消し、ロウソクだけの真っ暗な道場で行なう別時念仏は、私たちに対して、闇の恐怖と共に、かすかな灯火の有り難さ、さらには「節電(少欲知足)」の意味さえも考えさせてくれるものでありました。
被災地で頑張っている方のためにも、まずは私たちがしっかりと地に足をつけて、お念仏のなかでの一日一日を大事にしてゆこう、そのように思いました。
未曾有の災害である東北地方太平洋沖地震によってお亡くなりになられた方々とご遺族の皆様の安寧、さらには被災の最中におられる皆様のご無事を心より念願いたします。