4月1日、初めてひとさじの会の活動に参加させていただきました。朝日新聞の記事で会の活動を知って以来ずっと興味を持っていましたので、大学生の娘と一緒に参加でき、大変嬉しく思っています。
当日は準備からお仲間に入れていただき、なごやかな雰囲気の中、楽しく作業できました。
おむすび配りの前に皆さんとともにお念仏を唱え、副住職のお話を伺い、気が引き締まりました。緊張というより、心のなかに涼やかな風が流れたという印象でした。
そして、8時浅草班に入れていただいて出発。昼間と雰囲気ががらりと変わった浅草の町、その暗闇に紛れるようにいらっしゃるおじさんたちを初めて目にしたときは、心がしんとしました。
私は、飴をお渡しする役を受け持ちましたが、おじさんの手に手が触れたとき、今までホームレスの方に抱いていた印象が変わりました。
とても温かだったからです。間近で見るおじさんたちの目は穏やかで、清潔な印象さえ受けました。
町の片隅で、人々の邪魔にならないように細心の注意を払っている様子、明日を迎えるためにひっそりと夜を越そうと準備している、その横顔、後ろ姿に、今までの偏見が洗い流されていくのを感じました。
距離をとっていたのでは、わからないことが多いのだと改めて気づきました。
途中出会ったあるおじさんは、3月末まで教会に身を寄せていたけれど、今日からまた路上に戻らざるを得なくなったと話してくださり、お渡ししたおむすびを、「明日への糧になる!」ととても喜んでくださいました。
福島の農家の出身で、三男坊だから東京に出てきたのだとも教えてくださいました。どういう経緯があって路上生活をするようになったかはわかりませんが、家は長男に譲るという三男の立場を受け入れ、身を引いた、そんなやさしい人柄に触れ、心の中で手を合わせました。
おむすびとともに、カイロ、お茶、飴、薬などもお配りしましたが、多くの方が必要のないものははっきり「いらない。」とおっしゃることが印象に残りました。
なぜなら、私たちは日頃「くれるならもらっておこう」「タダならもらわないと損」そんな価値観で暮らしているからです。
いらないものまでもらって、溜め込んで、邪魔になれば「断捨離」など都合のいい言い訳をしてゴミ箱に捨てる、それが今多くの日本人の日常になっています。
それなのに、おじさんたちは、要るか、要らないか、きっぱり判断される。余計に欲しがる方は皆無でした。中には、必要であっても要らないとおっしゃった方もいらしたのではないかと思います。
そういう姿勢が、路上に出られたことと、どこか繋がっているのでしょう。競争社会で〈勝ち〉を相手に譲り続けた末に路上で暮らすことになった方もいるのではと思いました。
東日本大震災後「絆」という言葉が日本中で唱えられ、これを契機に日本の社会は少しはよくなるかも…と安穏と思っていました。
しかし、復興は進まず、経済至上主義に戻りつつある今、自分の考えはやはり楽観的過ぎたのだと落胆していました。
だからこそ、今回ひとさじの会の活動に参加させていただいたことに感謝しています。
4年間朗らかにかつ着実に活動を続けてこられたみなさんから力をいただきました。
社会がなかなかよくならなくても、悲観的になって行動をやめてはいけないのだと肝に銘じました。
いろいろなことを知り、考える貴重な機会をいただき、感謝しています。またぜひ参加させてください。