夜の上野公園に遠雷が轟いていた。
いまにも大粒の雨が落ちてきそうな雰囲気だ。
桜がちらほら咲き始めた3月28日、私は「ひとさじの会」の炊き出しと
配食に初めて、参加した。
私は京都の貧乏寺の跡継ぎだが、普段は東京で雑誌の記者をやっている。
吉水岳彦上人とはある人物とのご縁で知り合え、今回、僧侶と記者の両方の立場で参加させていただいた。
「ひとさじの会です。おにぎりをお持ちしました」
最初は憚られた声かけも5人、6人とやっているうちに自然にできるようになっていった。
段ボールハウスの隙間を覗き込むと、おじさんの眼が光る。
そしてむっくりと起き上がって、おにぎりを受け取る。
「どこか具合の悪いところはありませんか」
上野界隈の「おじさん」達の多くは風邪を引き、胃を痛めていて、あっという間に薬がはけていった。
たまに遠くで稲妻が光り、湿気を帯びた風が吹き抜ける。
桜が咲き始めたが、まだ夜は寒い。
屋根があるところはまだいいほうかもしれない。
ベンチでシートにくるまっている人は、どうするの?
おにぎりをひとつ、ふたつと渡す作業を通じて、おじさん達の命が紡がれていくようにも感じた。
配食の前に渡されたショルダーバッグは肩に食い込むほど重くてびっくりした。
それが2時間で、2個だけになった。
ひとつひとつ、命を受け渡した。
そんな心持ちになりそうになったが、でも、「おじさんの命も、僕らと同じ命でしょ」とも思う。
ひとさじの会は、命に差をもうけない。
公園で寄添うカップルの命も、おじさんの命も同じ重み。
至極、当たり前のことなんだけれど。
夜の上野公園で、いくつもの命の灯火が、揺れていた。
せめて雨よ、どうか降らないで欲しい。
そう願った夜だった。