本来であれば、高瀬代表や吉水さんと共に継続的に携わってきた方々による感想文が200回の節目には相応しいのでしょうが、私のような初参加者の駄文をお許し頂きたく存じます。
200回という数字を考えますと、この活動に携わった人数はどれくらいになるのでしょうか。一回限りの方もいたでしょうし、毎回参加されている方もいると思います。
私が友人と参加した今回の活動においても、協力者の方々がもつ動機は様々でした。ですから、この活動の目的や意義をひとまとめにすることは難しいのだと思います。
それは活動を通じて個々に見つけ出すものであると想像できますし、きっと何回も参加されている方と私とでは見える景色が異なるのでしょう。
私に確固たる信念があったわけではありません。しかし、人が人を助けてはならない道理などあり得るのだろうかと考え、この活動に参加しました。
実際の支援活動を経て感じた個人的な後悔と反省を感想文にしたいと思います。
路上生活者への配食は未知の経験でしたが、特に問題なく始まりました。何人かと世間的な会話もありましたが、私個人に限ってみれば、流れ作業になっていたことは否めません。
最後のおにぎりを渡そうとした一人の路上生活者との会話が今も心に残っています。
「お前たちは配っているだけだろ」と、ハッキリ言われました。
彼の意図がよくわかりませんでしたが、彼は体調が悪いので食べられない旨を示していましたので、ご飯の心配ではなく身体等にも気を配ってくれという意味なのかなとも思いました。なんとなく気になったので私は五分ほどその場に残ってお話しました。
その路上生活の方が、我々の用意したおにぎりとは違うご飯を見せて「俺は○○でこの飯を貰った。ちゃんとお辞儀してもらったのだ」と教えてくれた時、私はハッと何かに気付いたのを覚えています。
お辞儀とは「礼拝」のことを指していたのでしょう。その時は、言葉にまとめられませんでしたが、今思い出してみますと徐々に私の中で今回の活動に対する個人的な後悔と反省が浮かび上がってきます。
何か仏教の難しい教理を説くわけではありません。しかし、仏さまの「ほ」の字も出していないこ
とに気づいたのです。どうして、私は皆さんからの感謝の言葉を自分が施した恩に対する言葉のように感じていたのでしょうか。
「恩知らず」という言葉があります。その反対に恩を知ることを、仏教の用語では「知恩」といいます。ただし、この知恩とは仏さまのご恩を知ることに他なりません。
世尊のお弟子である尊者スブーティが経典の中で説かれた言葉が想起されます。私たちは世尊の恩を知る者になるべきであり、恩を知らない者になってはなりません。
私がこの活動に参加したご縁も根源的には仏さまからのお導きであります。そして、本当の意味で施してくださったのは仏さまに他なりません。
そのご恩を抱いていれば、私自身が自然と合掌することが出来たでしょうし、支援を受けた路上生活者の方々も一緒に手を合わせてくれたかもしれません。
合掌 南無阿弥陀仏
※本日は214回目のひとさじの会の活動でした。